石田嵩人 政治家
生い立ち
1990年(平成2年)、福井県福井市に生まれる[6]。外科医である父[4]の英国留学に伴って[7]、小学6年の1年間を[7]ロンドンで過ごす[8]。同年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件の報道を見て、国際関係に興味を持つようになる[4]。帰国後、福井大学教育地域科学部附属中学校[9]、北陸学園北陸高等学校へ進学[10]。高校まで福井県内で暮らす[11]。
大学時代 (2008–2012)
2008年(平成20年)、高校卒業後[10]、関西外国語大学国際言語学部に入学[12]。この頃までには、英語を使って何か大きな仕事がしたいとの志を持つ[8]。しかし、帰国子女でありながらも入学当初は英語が得意ではなかったため、語学力を磨くべくESS部に入部[8]。大学1年が終了した春休みにニューヨークへ一人旅し、国連本部を見学ツアーで訪れ、将来国際連合で働くという目標を明確にする[8]。
2010年から2年間[4]、同大学のダブルディグリー留学プログラムを活用して、米国・オレゴン州のパシフィック大学へ学位留学し、国際関係学を学ぶ[8]。
米国留学中の2011年(平成23年)3月11日、東日本大震災が発生する[4]。クラスで唯一の日本人留学生だったことで、現地の学生や教授から震災後の日本の状況について尋ねられ、授業の冒頭でプレゼン発表して説明したり、募金活動をしたりするうちに、日本人としてのアイデンティティーが育まれる[8]。このときの体験が、国連職員として国際益に貢献したいとの従来の考えを改め、日本の国益のために働きたいと思い始めるきっかけとなる[8]。同年開催されたボストンキャリアフォーラムで日本の外務省の説明会に参加し[4]、外務省の職員から直接、同省でキャリアをスタートしてみないかと勧誘され、外交官を志す[8]。
2012年に帰国後、関西外国語大学国際言語学部国際言語コミュニケーション学科を卒業[8]。同大学から国際コミュニケーション学、パシフィック大学から国際関係学の2つの学士号を取得[12]。同年、日本国際連合協会が主催し、外務省が後援する、日中韓ユースフォーラムに参加する[8]。
外務省時代 (2015–2025)
大学卒業後は予備校に通い、3回目の国家公務員試験で外務省専門職員採用試験に合格する[4][8]。
2015年(平成27年)4月、外務省に入省[4]。北米局北米第二課に配属され[13]、研修生として1年間働いた後[4]、2016年から2年間、研修の一環として、米国ワシントンD.C.にあるジョージタウン大学外交政策大学院(英語版)へ留学[12]。同大学院外交政策学修士課程(国際政治・安全保障専攻)を修了する[13]。
2018年(平成30年)、アフリカの在ザンビア日本国大使館に三等書記官[14]として赴任し、外交官デビューを果たす[4]。ザンビアに赴任していた2年間には、同国を訪問した日本の外務政務官とエドガー・ルング大統領(当時)との間で通訳を務めたり、ナイジェリアへの出張時に総理特使の通訳を務めたりした経験がある[4]。
2020年(令和2年)から2022年(令和4年)まで、オーストラリアの在メルボルン日本国総領事館副領事を務める[14]。
2022年(令和4年)10月から政策研究大学院大学博士後期課程に在籍[12]。2025年(令和7年)12月17日、同大学院大学より博士(国際関係論)の学位が授与される[15]。博士論文の論題は “The Rise and Fall of Paradiplomacy in Australia: Victoria's Engagement with China and the Federal Government's Response” (和訳:「豪州のパラディプロマシー(英語版)[注 1]の興亡 : ビクトリア州の中国との関与と連邦政府の対応」)である[17]。
2024年(令和6年)7月からは、日本地域政策学会で国際交流委員会の委員を務めている[18]。また、国際交流基金とシドニー大学付属在豪米国研究所 (USSC)(英語版)(所長:マイケル・グリーン)が共催する同年度の「日豪次世代対話交流事業(JADE)」において、日本側フェローの一人として参画している[19][20]。
外務省ではエネルギー安全保障などの業務に携わっていた[21]。北米局以外にアジア大洋州局でも勤務し[22]、2024年から同省経済局経済安全保障課資源安全保障室所属の外務事務官[3]として内閣府へ出向していたが、前福井県知事・杉本達治の辞職に伴う福井県知事選挙に立候補するため、2025年(令和7年)12月24日付で外務省を退職した[23]。
福井県知事選挙への立候補 (2025–2026)
2025年(令和7年)12月25日、福井県庁で記者会見を開き、2026年福井県知事選挙に無所属で[23]立候補することを正式に表明した[14]。福井県議会最大会派の自民党県議会が元副知事で前越前市長の山田賢一を推薦した[24]のに対し、当初は杉本の再起・続投を望んでいた[25]福井市議会の自民党系会派有志らが独自候補として擁立した[14][26]。石田の擁立に至るまでに、何人かの福井市出身のキャリア官僚に出馬の意向を打診したものの、うまくいかず[注 2]、最終的に石田に白羽の矢が立った[27]。
石田は記者会見で、「東京や海外で公務員として働く中で、福井のためにできることはないかずっと考えていた[5]。今回の知事選挙は、私のふるさと福井への恩返しのチャンスだと思っている[21]」と述べ、出馬を決めた理由を説明した。市議の一人は石田を擁立した理由について、「県政史上まだいない福井市出身の知事誕生はわれわれの夢。長く福井県を支えてくれる候補として適任」と述べた[28]。
石田は出馬表明する直近まで数か月間[5]、国民民主党の党員だったが、出馬会見の数日前に自民党の党友となった[29]。党本部の推薦を得るための前提となる石田の党友資格の申請・取得を巡っては、県連会長の山崎正昭が紹介議員となった[30][31]。選挙戦の終盤には参政党(代表:神谷宗幣、福井県高浜町出身)の支援も受けた[32]。
同年12月28日放送の福井テレビの報道番組「タイムリーふくい」に出演した際には、外務省を辞めていきなり福井県知事選挙に出馬表明したことについて、段階を踏むという考えはなかったのかと問われ、「政治経験はゼロだが、これまでに外務省で培ってきた経験を最大限に活かし、県民一人一人の声を聞いて、さまざまな地域の人々と交流しながら、これからの県政を担わせてほしい」と答えている[33]。
2026年(令和8年)1月25日、福井県知事選挙の投開票が執行され、山田賢一との接戦を制して、4,330票差で初当選した[34]。同日時点で、現役の都道府県知事としては最年少[1][注 3]、平成生まれとして全国初の知事の誕生となる[35]。同月28日に福井県選挙管理委員会から当選の旨の告示がなされ[2]、同日付で福井県知事に就任した[注 4]。
福井県知事時代 (2026–)
2026年(令和8年)1月29日、県庁に初登庁し、知事としての執務を開始した[36]。
1月の当初予算案の知事査定に始まり、2月に自身初の定例県議会、4月にハラスメント対策の一環で県庁内にコンプライアンス推進本部の立ち上げなどを行なった[37]。「若者の躍動」と「全世代リスペクト」を県政のスローガンに掲げている[37]。2月定例県議会では「政策に独自色が見えない」と指摘されたが、6月定例県議会の補正予算案編成などへの政策立案で「自分の色をしっかりと出していく」としている[37]。
2026年、石田たかと知事はカルチャーライターのヴェラ・フォン・モニカ(Vera Von Monika)による初の海外メディア独占インタビューに応じ、福井県の地域開発、文化、および国際的な情報発信の取り組みについて語った。...
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福井県の石田嵩人知事が小泉進次郎防衛相に面会 嶺南への自衛隊部隊配備を要望
2026-07-31福井県の石田嵩人知事は、小泉進次郎防衛相や酒井庸行国交副大臣と相次ぎ面会し、県内原発の防護体制強化に向けた嶺南への自衛隊部隊配備や、道路網整備などのインフラ強化を要望した。
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